涙のヒーリング

現在、ヒーリングセッションは遠隔をご希望いただくことがほとんどです。
じつは遠隔で良かった、と思うことが時々あります。
セッション中によく泣いてしまうからです。
それも涙ぐむくらいならまだしも、号泣する、泣き崩れる、
ということがけっこうあるのです。
共感能力(エンパス)によるものであっても、
浄化されたヒーラーであれば、感情的に共鳴しないのでは、
というご意見もあるかもしれません。

でも、そうした場面に遭遇して涙を流さないような人間には
絶対なりたくないなぁ、と思ってもいますので、たぶん、
これはこれで、私が選択していることでもあるのでしょう。

壮大な愛のエネルギーや、宇宙の素晴らしさ美しさに
心が震えて涙が止まらない、ということが半分くらい、
クライアントさんの過去生のストーリーに泣かされてしまう、
ということが半分くらいでしょうか。
ヒーリングセッションにティッシュペーパーは欠かせません。

最近では、楽しく、軽やかに、という生き方が推奨されていますし、
今の時代にはふさわしいと私も思っています。
生きていれば喜ばしいこと、楽しいことは限りなくありますし、
愛ある心が、人々との繋がりをつくり、
味わい深い経験を生み出すと考えてもいます。

しかし、そうであっても、人として生きるというのは、
そもそも、せつないことのように思うのです。

ヒーリングにおいてクライアントさんの過去生のビジョンに入ると
思考感情を、かなりリアルに感じます。
「こうするしかなかった。」
「その時にはそうとしか思えなかった。」という、
制限の中でもがく人の思いにぶつかる時、
それがどれほど、よろしくない行為、選択であっても、
批判したり裁く気持ちには、私はなれません。
ただ、ものすごくせつなく、一緒に泣いてしまいます。

それでも、どれほど涙を流そうとも、ヒーリングエネルギーが展開し
変容が起こるのを、結局は見届けることになります。
終わればいつも夢から覚める感じになり、
観た映画のストーリーを思い出すようにしながら、
シェアレポートを書いています。

以前にも書きましたが、時間という概念を離れれば、
過去も現在も未来も、時系列の物語は錯覚でしかありません。
私たちは毎瞬、別の生という幻想のデータに繋がり影響を受け、
そのせつなさをコピーしながら、そしてそれゆえに
成長の実感をかみしめながら、物語を生きているように思います。
人は生きる物語、オデッセイそのものだとも見えます。

その仮定において、ヒーリングは治癒、癒やしというよりも、
物語のバージョンアップであり、ストーリーテリングは、
極言すれば常に現在進行形、書き換え可能なオープンな状態だと
私は考えています。

過去生の物語を好奇心から知りたいと思うこと自体は
構わないと思いますが、
それによって限定される感覚があるとしたら、
何かが間違っているという気がします。

それは信じたり信じなかったりするものでなく、
潜在意識から浮かび上がった、たとえ話のようなものです。
自由になり、解放されるためにもたらされるのであって、
狭い枠にはめられるような話であれば、
カルマと言われようと何だろうと、
エゴの作り話だと、笑い飛ばしてしまえば良いのです。

「過去生では偉大な人物だった。」
「前世で自分はひどいことをしていたらしい。」と
その物語にどぷんと浸っておられる方にお会いすると、
コメディよりシリアスドラマがお好きなんですね~、
などと、ちょっとからかいたくなってしまいます。

私たちはこの現実、今という生身の時に生きていて、
この瞬間にまさるものはありません。
それはそれ、これはこれ、軸足はここ、
というバランス感覚をキープしながら、
自由に考えを飛翔させる必要があると思います。

ただ、少し角度を変えるだけで、
まったく違う景色が見えるのと同じように、
少し視点を変えるだけで、
現実という物語はくるりと様子を変えることも確かです。

“気づき”というのは本当に大切なものです。

ヒーリングの中で涙の物語を共有し、それをお伝えする時、
私はなるべく解釈を挟まないようにしています。
フィクショナルな体験としてでもいい、
いったんはその世界に入っていただけたら、と思います。

そこから気づきを得られたことなど後でうかがうと、
人生の尊さ、ありがたさに私自身も気づかされ、
ふたたび涙があふれてきたりします。

そういうわけで結局、
しょっちゅうウルウルしてばかりいるようです。