魂の落としもの

ヒーリングセッションの中で現れてくるビジョンについては、
そのままクライアントさんにレポートをお送りしていますが、
あくまで主軸はエネルギーヒーリングと考えていますので、
ビジョンの内容に基づいてカウンセリングのように
解説することはありません。

お送りするレポートを基に、その方はその方の、
私は私の宇宙観を持って感じ入り、
羽ばたかせるイメージがあり、
それは似ていたり、似ていなかったりします。

とてもパーソナルなものですので、セッション例として
ご紹介するということは、ほとんど稀ですが、
先日、ちょっと思うところがありましたので、
クライアントさんのご許可を得て、こちらで一部
内容に触れさせていただきます。

セッションの中で、ある過去生的なストーリーを見ました。
といっても年代的にはクライアントさんの人生に
オーバーラップしている時間があるようですし、
一般的な輪廻転生の概念に基づいてとらえてはいません。
(セッションでは未来やSFファンタジー風のビジョンも頻出します。)

またこれを事実として信じるというより、
妄想だろう、という程度に、
お読みいただく方が良いと思います。
少なくとも各個人のバイアスは必ず入るからです。

最初のビジョンで、
大きな目をした健康的な赤ちゃんが見えました。
アメリカ人の男の子でした。
すぐに、5歳くらいの姿になり、利発そうな様子と
平凡で平和な家庭での暮らしぶりが伝わってきました。
しかし場面が移ると、すでに青年に成長していて、
彼がベトナム戦争で両目と両脚を失って帰還した、
ということがわかりました。

負傷される前の、ポートレート写真も見せられました。
この輝く目が奪われてしまったのかと思うと、
とてもやるせない気持ちがしました。

彼にはストイックで強靭な精神力があり、
帰国後も自立した生活を営み、
表面上はとても明るくタフに生き抜いた、
と見えました。

でもその影では、深いトラウマ、精神的な後遺症に
ずっと悩まされ続けていました。

激しい爆撃を受けた時、その凄惨な修羅場の中で、
彼はイエス・キリストの名を叫び続けていました。
「僕に信仰心がなかったら死んでいたよ。」と聞こえます。

この生き地獄であれば、何かにすがりたい、
という気持ちはよくわかる、と思いました。
負傷したり、あえて言えば、死んだりする、ことよりも、
経験することの方がずっと受け容れ難い、
人としてそういう過酷な状況に直面したとしたら、
その強度に耐え、支えられ得る唯一のものが
どのような信仰心であったとしても、
それについて私が共感できない、
などと言えるでしょうか。

ただ心からうなずくことしかできません。

今、彼には無念さも何もなく、
すでに浄化された状態だと感じましたが、
この恐怖の記憶だけが、時空の一点に
取り残されている、
と思いました。

その記憶に静かにヒーリングをしていきました。
ジャスミンのような白い小さな花が

大地を埋め尽くしていくようなビジョンを見ながら。

はっと気づいた時、軍服姿の彼が目の前に立っていて、
私の手をすっと握って消えていきました。
その感触が非常にリアルでした。
弾かれたように突然、私は泣き出し、
しばらく嗚咽が止まりませんでした。

戦争の悲惨な場面は確かにショックで、
それはそれで泣けるのですが、
どこか映画のシーンを垣間見る感覚です。
むしろ、この強烈な記憶のフラッシュバックに
苛まれながら生ききった彼の労苦と、
最後には経験を超越していく人間の尊厳の方に、
圧倒的な存在感と感動がありました。

ところが目の前に現れた彼は、どちらかというと
「落とし物を片づけにきたよ。」くらいの
爽やかで気軽な雰囲気でした。
今ではもう、その記憶は僕のものではないけどね、
というような。

沖縄では、びっくりしたり、心が大きなダメージを受けると
「マブヤ(魂)を落とした」などと言って
戻すための儀式があると聞きます。
魂はもちろん物理的に分離するものではないので、
これはどういった比喩だろうか、と
考えていたことがありました。

個人的な想像でしかありませんが、
「魂が抜け落ちた」というのは、
一部データの、ある次元における残留であって、
IT用語でいう「キャッシュ」に近いようなものではないか、
と思うのです。

消去されないまま更新されず干渉し続け、
異なる時空に至って読み込まれてしまう情報。
浮上してくる問題を、そんなふうにシンプルにとらえれば、
ヒーリングの実際とは、ほとんどの場合、
データの修正・修復作業だろうと
考えることができます。

輪廻転生の仮説にロマンを感じる方々には
味気ないような話ですが。

ただ、人が握りしめている記憶が、
自在に修正もできる
閲覧履歴のようなものだとしたら、
今という新しいキャンバスに、もっと自由に絵を描ける、
そういう可能性のひろがりを感じないでしょうか。

おそらく、そんなに簡単じゃないよ!
と言われてしまいそうです

それも人生の醍醐味といえるかもしれません。
でも力をこめて握りしめるほどに消去は難しく、
ネットワークの関係性の中で、
幾度も修正の機会が試みられる、
ということになるのでしょう。
あらゆる次元を超えて。

私たちは時にそれをカルマと呼んだり、
思いもかけない場所で、
何かに導かれたような縁に驚いたり、
夢を通してでさえも、
知らず知らず経験を与えられ、
有機的にプログラムを修復させようと
しているのかもしれません。

この壮大な魂の旅路を思い描くことこそ、
簡単なことではないでしょうが、
すべては繋がっていて、きっと意味があるのだろう、と、
強く握りしめていた手を、ふと、ひろげて見る時、
指の間からさらさらと…マボロシがこぼれて、
消えていくこともあるのです。