ヒーラーとしての視点

ちょっと前に入荷した、ブルーオパールという
ジェムストーンを見ていたら、
ある映画のワンシーンを思い出しました。
タヴィアーニ兄弟監督によるイタリア映画、
「カオス・シチリア物語」という作品です。

ずいぶん昔に一度観ただけなのに、
細部の印象がはっきり残っていました。
ラストでシチリア島の海辺のシーンが出てきますが、
その世界が、ブルーオパールのイメージに重なったのです。

抒情詩的な素晴らしい作品でした。
ほかのシーンの中で、亡くなった母親が語る、
こんな台詞がありました。

「もはや見ることのできなくなった者の眼で、
ものを見なさい。つらいだろうけれど、
物事がずっと美しく、尊いものに思えてくるから。」

そういえば、この台詞に出会った時、
雷に打たれたような衝撃を受けたのでした。
これはどういうことを言っているのだろう、
すごく大切なことなんじゃないだろうか、と。
しばらくの間、頭の中で、この言葉が
ネオンサインのようにぐるぐると
回っていたことを
覚えています。

それからも、折にふれて開く、
記憶の引き出しの奥の方から、
この言葉が鈴の音のように転がり出てきて、
何かを知らせてくれる気もしたのですが、
ちらと気づいてはまた、そのまましまいこんでいました。

でも今こうして向き合ってみると、
ヒーリングをしている時の自分の視線は、
死者の眼差しなのでは、と
あらためて思い当たります。
台詞本来の示唆とはだいぶ違うのでしょうが。

ヒーラーにはいろんなタイプの方がいますが、
よくいわれる「手からエネルギーを出す」という感覚が、
私にはよくわかりません。
経験を重ねるごとに、自分の手が変化し、
エネルギーグローブを着けているような感覚があったり、
また、方向指示器のように文字通りの「手当て」はしますが、
自分の身体の内側から手を通してエネルギーを流す、
という感覚は、最初からありませんでした。

そのような方法で、手から大きなエネルギーを流される
ヒーラーさんも数多くいらっしゃいます。
人それぞれに違うと思います。
ヒーリングの手法にオーセンティックなものなんてなくて、

むしろ常にアヴァンギャルドであっていいと思いますが、
もしかしたらそこには、3次元に対する視点の違いが
あるのかもしれない、と考えたりします。

私の場合はレイキであっても、流し始めると、
なんとなく時空がグニャ、とゆがむ感覚が起きます。
まるで映画のスクリーンがたわみ出すみたいに。

ヒーリングする、という行為に関しては、
宇宙との二人羽織をはおるようでもあり、
同時に幾重もの鏡に向かうようでもあります。

エネルギーは私の身体と関係なく生じ
総体的な有機物のように動き、

眼は対象次元の中に入り込むことなく、
死者のように、いずこからか見ているのです。

また、別のパターンでは、
クライアントさんと私とをゼロポイントとして、
まわりをエネルギーが激しく旋回したり、
中空でらせんが上下することも多くあります。
それはまるで、洗車機の中にいて、
車内でおとなしく待っているような状況です。
私たちは動きのない静寂のポイントであり、
ヒーリングが起きているのは、そのポイント以外の
すべてではないか、と感じます。

死者の視点、というとユーレイさんをイメージして、
気味悪く思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
そういうものとはまったく異なります。

世界のありようを、内的体験から直視しようとする時、
「もはや見ることができなくなった眼として見る。」
ことを、私が望んで選択しているのだろうと思います。
自我のメガネをはずし、純粋な裸眼を見開こうと。
映画の台詞が心に刺さった時すでに、
そうしようと決意していたことだったのでしょう。

それはともかくとして、
忘れがたく印象に残った言葉、というのは、
誰しもあるのではないかと思います。
時々は古いものも取り出して、ホコリを払い、
じっくり見直してみてはいかがでしょう。

意外にも、今のあなたを決定的に風味づけしている、
重要なスパイスの1つ、であるかもしれません。

「カオス・シチリア物語」予告篇