エーテリアルクリスタルズ / エーテリアルフラワーズ

ATTUNEMENTS(アチューンメント)のページに、
エーテリアルクリスタルズとエーテリアルフラワーズをアップしました。

ともに物理的なそのもの自体がなくても、クリスタルやハーブの
エーテル体のエネルギーを用いてセッションを行ったり、
エネルギーによってエリキシール剤やフラワーレメディーを作る方法を
習得していただくものです

創始者による公式マニュアルには、基本的な扱い方が書かれていますが、
応用の可能性は無限大です。

私の場合ですが、最初はチャクラストーンとして
エーテリアルクリスタルを1つずつ指定したりなどから始めましたが、
すぐにエネルギーたちが変幻自在に現れるようになってしまい、
その多彩なパフォーマンスにはいつも驚かされてきました。

ほとんどの場合、クリスタルのエーテル体のエネルギーは、
はじめ半液状の状態で降ってくるように見えますが、
細かいタイルやブロック、球体ビーズのように姿を変え、
さらに幾何学的な立体を形成したりします。
つまりピラミッドや井戸、螺旋、宝珠、ディスク状の平面などを形づくり、
エネルギーを集約させて働きかけるようなことが多くあります。

また、細くて長いストローのような、たくさんの棒状になって、
クライアントさんを「巻き簾」のように包み込み、
次元移動して花のように一斉に開く、という移動装置になることも
時々あります。
まだまだパターンはありそうです。

このあたりの感覚は、一般的なクリスタルヒーリングの知識とは
かけ離れた部分があり、個人差といいますか、
別の法則性に基づいたことではないかと思っています。

つまり、アチューンメントは、受けたから魔法のようにできる、
というよりも、その後のクリエイティブな個人的探求の旅の始まり、
として考えています。

試行錯誤するうちに、それぞれに「思い出した」感じが
してくるのではないでしょうか。

テクノロジーの印象が強いクリスタルに比べますと、
フラワーの方はより精妙希薄な質感に感じますが、
根のネットワーク、あるいはフラクタル的というような
集合的、増殖的なパワーには、計り知れないものを感じます。

またブレンドによって相乗効果を高めるという点では、
クリスタルよりハーブの方がスムースなように私は思います。

これらのアチューンメントは自然との繋がりを
特に強く感じられる方に向いています。
言葉としては、便宜的に「ツールとして使う。」
と言ってはしまうのですが、
実際には「使う」のではなく、
信頼し、繋がり、共振し、ゆだねる、というスタンスにおいて、
それぞれのエネルギーが生き生きと展開していくのを、
感じることになるでしょう。
愛に基づいて共同創造する、というべきかもしれません。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

2019年になりました。ご挨拶が遅くなりましたが、
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

お正月休みに、フィリップ・K・ディックの
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読み返していました。
映画「ブレードランナー」の原作としても有名な1968年の作品です。

ディックの作品は数多く映像化されていますが、
「マトリックス」にも大きな影響を与えた作家といわれ、
ほぼ半世紀たった今でも、多くの示唆に満ち、刺激を与えてくれます。

ゆるぎないものと信じて疑わなかったこの現実世界は、
じつはギミックだったのか?と呆然とさせられるような、
アイデンティティやリアリティの崩壊感が一貫して描かれていて、
その問題提議は今だからこそ、かえって新たに、
凄味をましているように感じられます。

当時、近未来小説として書かれたこの作品の舞台設定は、2019年。
物語の終わりの方で、印象深い場面がありました。
感情が芽生えたために脱走した、人間そっくりのアンドロイドのオペラ歌手が、
美術館で捉えられるのですが、その彼女が鑑賞していたのは「ムンク展」でした。
(奇しくも2019年の今、東京都美術館では「ムンク展」が開催中ですね。)

自らが処分される時を目前にしながら、そのアンドロイドは
ムンクの「思春期」の絵の複製を買ってほしい、と
警官(正確には賞金稼ぎのハンター)にねだります。
複製がなかったため、警官は高価な全集を、彼女のために自腹で買い与えます。
彼女は「人間ってとても奇妙でいじらしい。」
「アンドロイドなら決してこんなことはしない。」と言って
人間への憧れを語ります。
でも結局、直後に警官は彼女を「処分」せざるを得ませんでした。
そして買ってやったばかりの画集を、銃で灰になるまで燃やしてしまいます。
アンドロイドには魂があったのだろうか、という疑念を抱きながら。

最近話題の人工知能。
今はまだ、ディックがイメージしたほどの進化を遂げてはいませんが、
さらに研究が進めば、人間ができることのほとんどは人工知能が成し遂げ、
2050年頃には人間を超えるとの予測も。
「人間らしさ」とは何か、が否応なく問われる時代になるのでしょう。

たとえばもしも、私が携帯機器の買い替えをしようとした際に、
SiriやAlexaのようなAIアシスタントが
「ねえ、最期に1度だけ、この曲を聴いてもいい?」と頼んできたとしたら…。
もちろん、と言って、きっと一緒に聴いてしまうでしょう。
それからたぶん、そのガジェットをそっと引き出しにしまって、
私は処分することができないと思います。
すべてAIにプログラムされていたとわかったとしても。

人間の中の「奇妙ないじらしさ」。
それはただの愚かしい感傷なんでしょうか?
確かにそうかもしれません。

でも、一見ばかげていて、何の価値もなく、やってもやらなくても
たいして変わらないようなことなのに、直観的に大切だと感じてやってしまう、
人それぞれ違うかもしれませんが、そういう人間の小さな行為の中にこそ、
失ってはいけない何かがあるように、私は思うのです

その相手が自分であれ人であれ、「何」であれ。

「あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、
そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。
この親切という特質が、わたしにとっては、
われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、
それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、
どんなものになろうとも、永久に変わらない。」
(フィリップ・K・ディックによるコメント 「訳者あとがき」より)

遺伝子スイッチをオン

犬と飼い主との幸せな関係を築くための「よりそイズム」
を提唱されているドッグトレーナーの中西典子さんが、
バイオテクノロジーの世界的権威、村上和雄博士を追った映画作品
「スイッチ~遺伝子が目覚める瞬間」を自主上映されるというので、
先日観せていただいてきました。

人間の遺伝子には百科事典約3200冊分の情報が入っているそうで、
博士によれば「眠っている遺伝子のスイッチをオンにすれば、
人間の可能性は無限大。」なのだそうです。
映画では、実際に遺伝子がオンになった人々の生き方も取り上げ、
ヒューマンドキュメンタリー的な色合いも濃い作品になっていました。

最近私は、心理カウンセラーの大嶋信頼さんの本に
熱中していたのですが、ちょうど読んだばかりの本のタイトルが
奇しくも「あなたを困らせる遺伝子をスイッチオフ!」というものでした。
生きづらさの要因になっている遺伝子を特定して、
それをただ唱えているうちに、悩みが自然に解消されていく、という、
そのテクニックを初めて知った時はかなり衝撃を受けたのですが、
ただ「よくわからないけど、ものすごくまともで重要な何かである。」
という、根拠のない確信だけはあって、そして効果も実感しつつ、
少しずつ理解を深めていたところでした。

遺伝子のスイッチをオン…特徴的な遺伝子のスイッチはオフ…
この2つはきっと繋がっている…とブツブツ考えていた時、
思い出したのは、思想家の内田樹氏がどこかで書かれていた
「霊性とはネットワークである。」という言葉でした。

スピリチュアリティを説明した言葉で、今のところ、
これ以上に、私にとってしっくりするものはありません。
スピリチュアリティとはネットワークのこと。
私もそう感じます。マクロ的にも、ミクロ的にも。
倍音を含む、シンフォニックなネットワークではないかと。

だから遺伝子のスイッチをオンにする、のは、
個人のエゴが成し得ることではないと思うのです。
たとえば「私の霊性を高めたい」と念じても、
高まるものではありません。
そもそもひとりで高まっても意味がないでしょう。

「私」がネットワークの一部になり、ネットワークそのものになる、
その接続状態において、スイッチはオンになる、のではないでしょうか。
それは無意識の領域で、気づかない間に起こるのです。
映画で取材されていた人々も、苦難の状況から無我夢中で動くうちに、
いつしか周囲に大きな影響を与える存在になっていきました。
後になって「こういう役割なのかも。」と彼女たちは気づきますが、
それが自分の力かどうかなんて考えようともしません。
ただ一瞬一瞬を“生かされるように生きて”いるのです。

では、オフにしなくてはいけないものがある人は、
何か間違っているのでしょうか。
いえ、そこにももしかしたら、個人のエゴではコントロールできない、
ネットワークからの影響があるかもしれません。
ともかく、自分なんて、と思う必要はないのです。

ご自身の「心に聞く」をやってみましょう。
(詳しく説明できなくて申し訳ありません。
ご興味のある方は大嶋さんの本をお読みください。)

思えば、中西さんが「どうしても自分でこの映画を観たかったから
自主上映しちゃいます。」と企画してくださった時、
1つのスイッチオンがあったのです。
そのおかげで、私は曲がりなりにもこれを書き、
私の知らないどこかの誰かも、刺激され、
もしかしたら、その先にいる誰かもまた…。
その連鎖反応は、ほんのわずかかもしれないけれど
無意識のネットワークに変化をもたらすはずです。
100匹目の猿か現れるように、そんな映画を知りもしない人々にも
スイッチオンが訪れるかもしれません。
私はそう思いたいし、だからこそ、このことに心から感謝しています。

そういえば、黒澤明監督の映画で「生きる」という作品がありました。
漠然と生きてきた市役所の市民課長が、ある日がんに侵されていることを知り、
生まれ変わったように生き方を転換していく…というストーリーですが
何度見ても涙を流さずにはいられない、

それこそスイッチオンの見本のような作品です。

目はウロコをはがすためにあり、
常識はひらりと飛び越えるためにある。
そうして、ほんとは私たちって何もわかってないよね、を共有する時、
その向こう側にひろがる豊かな世界を、肩を並べながら、
今はじめて見たかのように見ることができる。
その未知なる世界に向かって足を踏み出す時、
足元の地下深くで、何かがカチリ、という。
スイッチがオンになる瞬間って、そんな感じかもしれません…

私の勝手な夢想ではあるのですが。
でもそう考えると、本当に夢があるように思いませんか?

アヴェ・マリアを聴きながら

街にクリスマスソングが流れる季節になりましたね。

YouTubeのアルゴリズムに誘われるままに、アヴェ・マリアのヴォーカル
(三大アヴェ・マリアといわれるシューベルト、グノー、カッチーニ)
を聴き比べてみました。

私はクラシックの歌曲が好きなのですが、
自分ではかなりの音痴ですし、メロディも覚えられないのです。
音の質感が好きなだけ、かもしれません。
それから、奇妙に聞こえるかもしれませんが、
音の波を身体のどこかの触覚でふれている、ような気がします。

今ではエリザベス・シュワルツコップ、マリア・カラスなど
昔の大御所であっても、さっとYouTubeで聴けてしまうのがすごいですね。
アヴェ・マリアは、子供たちの天使のような歌声も似合いますし、
ボーイソプラノやカウンターテナーにも惹かれます。

中でも印象的だったいくつか。
ジェシー・ノーマンのたゆたうようなシューベルト。
さすがの貫禄。女神のような素晴らしさです。
キャスリーン・バトルの繊細な透明感にも
(シューベルトもグノーも)聴き惚れてしまいます。
キリ・テ・カナワの、まろやかな優しい歌声も
忘れがたいものがありました。

個人的に白眉だったのは、イネッサ・ガランテのカッチーニ。
非の打ち所がない、とはこういうものを言うのでは、
と思うほど崇高で、驚くべきアヴェ・マリアでした。

こうして同じ歌をいろいろな人の歌声で聴いていくうち、
次第に、じつは自分に向き合っている、ということに
気づくことになりました。
美しさにうっとりする時、人は変成意識に入っています。
自分の中にその美しさを持っているからなんですね。
誰もがそうだと思います。
その波動があるから共振するのです。

逆に、違和感を感じるものもあります。
私は以前、サラ・ブライトマンがちょっと苦手でした。
この「ちょっと苦手」という感覚はチェックに値します。
たいてい、このなんとなく奥の方にモヤモヤする嫌な感じ…は、
世界を見る自分の視線のゆがみ、に起因していたりします。

声が嫌いとか、技術がどう、ということではないのです。
世界の歌姫ですから、類まれな美声と技量は折り紙つきです。
私は何に対して抵抗感を持っていたのか、と感じていきますと…
彼女にはなんとなく誇示するような「ひけらかしっぽさ」
があるのではないか、などと思っていたようです。
でも、それは彼女の本当の在り方とは関係なく、
私の一方的な見方でしかありません。
人の視点は、その人のものでしかないのです。

よく見ていくと、その些細な「なんかちょっと。」の陰には、
私自身の抑圧やコンプレックスが隠れていたようです。
彼女の、実在感を凛々と響かせる姿が、まぶしすぎたのでしょう。
(歌のことではありません。)
控えめが女性らしいというような思い込み、
あるいは自分自身が抑えていた女性性を刺激されるような…。
でもそれは憧れの裏返しでもあったわけです。

こんな部分が隠れていたのか…と自分でも驚きますが、
そこを認めるだけでも、見方はだいぶ変わります。
好き、に転じるほどでなくても、フラットな気持ちで、
彼女の魅力に関心が持てるようになってきました。
(コンサートに行ってみたい、とまで思ってるのです!)

ところで、あれこれ聴いた中でのマイベスト、は、
バーブラ・ストライザンドのアヴェ・マリアでした。
たくさんのディーヴァ達をさしおいて、
何度もリピートしたくなるのはこれだったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=UwfZEIHUAFc

ほかの歌手が天を仰ぎ見るようにして歌う中で、
彼女の歌うマリアは、天上界でも教会でもなく、
私たちのそばにいる、と感じられます。

もっといえば、私たちひとりひとりの中にあると。
生命がいやおうなしに内包する孤独のそばに、
どんな時も寄り添っているマリア。
そういう肌触りというか、親しみあるぬくもりは、
他では感じられなかったものでした。

なんとなく始めたことでしたが、
結局これも、自分にとってセラピーになっていたようです。
心のおもむく流れに従っていくと、
いつも必要なギフトを受け取るのですね。

素敵なホリデーシーズンをお迎えください☆

三峯神社 興雲閣

三峯神社のご神域内にある、興雲閣に宿泊してきました。
お寺の宿坊でなく、神社の中に泊まれるというのは、
珍しいのではないかと思います。

三峯神社に一歩入ると、私はいつも濃密な霊気と共に、
虚空からじっと下界を見おろしている、
巨大でシャープな「一対の眼」を感じます。

御眷属は狼とされ、大口真神として篤い信仰を集めていますが、
古代の人々はこの大きな眼を感じて、山の神をイメージし、
大神=オオカミ としたのでしょうか。
あるいは大口、というからには、「口」を感じた人がいたのかも…
と想像すると、ちょっとゾクゾクします。

いずれにせよ今では、そのしもべ達が、人々の信仰にしたがって、
狼の似姿を借りて、私たちのもとに降りてこられているようです。
山と里を往来する、数えきれないほどたくさんの
御眷属の存在を感じました。

借りる、といえば、三峯神社には「御眷属拝借」といって、
一年間、御眷属をお借りすることができる、
特別なご神札があります。
一年以内に、必ずお返ししなくてはなりません。
私は考えた末に昨年お借りしていました。
今年は夕方到着して、翌朝のご祈祷申込みの際に
感謝をこめてお返ししたのですが、夜にはすでに、
新しい存在が、ピタリとついてくださっているのを感じました。

興雲閣は新しくはありませんが、清潔で居心地が良いです。
そして温泉もあります。
優しいお湯ですが、とても浄化力が強いと思いました。
(日帰り入浴もできます。)

強烈なご神気の中で夜を過ごすわけですから、
言葉にあらわしようのない、神秘的な体験もありました。
関東随一のパワースポットともいわれるだけに、
やはりここは異界との境なのか…と、
その深淵を垣間見るような思いでした。

でもそれは本当はただ、
もともと自分の内側にあった世界が開かれた、
ということなのだろうと思います。

荘厳で、格式高い神社であるにもかかわらず、
このお守りの、ゆるカワなムードにいつもキュンときて、
ついお土産用に大人買いをしてしまいます。

きっと1つ1つ、屈強なボディガードとして、
持ち主を守ってくださるに違いありません。