転換期の人々

時代は転換期を迎えているみたいですね、
なんて話になると、それぞれの観点から、
うんうん、と頷きあってしまう今日この頃。

特にこのコロナ禍で、多くのものごとが
変化せざるを得なくなっていて、
あれもこれもそう、と思い浮かんできます。

私も最近、個人的観点から実感することがありましたので、
書き残しておこうと思いました。

まず、人々のエネルギーが軽くなっているということ。
少し前まで、十二単をまとっているかのように、
幾層にも重い遮断層を持つ方が多くいらっしゃいましたが、
軽々と透明感のある方が増えてきていると感じます。
当然、ヒーリングの内容も従来とは変わってきています。

またご自分で意識的でなくとも、
無意識の領域でライトワークをされている方もあります。
先日のセッション内では、あるクライアントさんが、
伊勢神宮の領域内にある、古びた小さな石の祠を開き、
そこからダウンロードされた情報を担って北海道に移り、
巨大な白龍を解放する、という作業をされていました。
白龍はシンボルであって、閉じ込められていたエネルギー
をあらわすのだろうと思います。

伊勢神宮の上空では膨大な情報が雨のごとく
連なって降り注いでいる、という
(映画マトリックスの冒頭シーンのような…)
興味深い光景も見られました。

こうしたワークは、ひっきりなしに数多く行われていて、
なぜか非常に急がれている、と感じます。

集合意識のヒーリングは「人間」を媒介としてしか、
行うことはできないのでは、と私は考えています。
それでも自意識が活躍している人では難しく、
常に業界は人手不足。
したがって、ご本人は気づいていなくても、
無意識や夢の領域においてのみ、
ボランティアに勤しまれている人は
相当数いらっしゃるのだろうと思います。

加えて、最近では細かくグループ化がなされ、
組織的な動き、というのも目立っています。

夢の話なので、夢物語として読んでいただければと思いますが、
私は夢を見ながらヒーリングをしていて、
あちらこちら往復しながら寝ていることがよくあります。
どっちが目覚めているのか…誰にもわかりません。

以前はけっこう個人プレーだったように思うのですが、
最近では、様々なチームと連携し、
共同作業や役割分担しているケースが多くあります。
大がかりなアクションやエネルギーが動く場合もあれば、
祈り、というパターンもあります。

その祈りには時間概念はありませんので、
「よくなりますように」といった願望的なものではないのです。
満ち足りたクリアな感覚があるのみ。
連携といっても声のないハミングのように…
個の意識はほとんど介在しません。

昨晩は、多くの人々と祈りを共振させていました。
はじめは小麦畑のような、さわさわとした波になり、
やがて地球の植物ネットワークから大地の意識へと
その振動が豊かな波紋のようにひろがるようでした。

多くのヒーラーやライトワーカーにとっては、
こちら側より無意識の領域で関わっている仕事の方が
スケールが大きく、はるかに想像を超えています。

結局、個人のエネルギーワーカーが
この次元において出来ることなんて、
ただポイントにいるだけ、節度を守って存在するだけ、という
圧倒的に普通なことでしかないのかもしれません。
ほんのちょっと意識的である他は特別なことでもないのです。
(その普通が難しいという見方もできますが。)

これまで長い間、感覚的なだけではダメだと、
説明できない事柄は虐げられてきましたが、
もうそういった時代でもありません。
学ぶことも大切には違いないですが、
自分だけにしかわからない感覚の動きを、
繊細に観察してみるのに良い時期だと思えます。

やっているように見える人、
知っているように見える人を、
うらやむ必要もないのです。

満たされ、開かれている「今」という瞬間を、
そのまま見つめる…
そこをホームベースとしていれば、やるべきことは
自然と明らかになり、世界がどのように変わろうとも、
落ち着いてサバイブしていけるのではないかと思っています。

持たない自由

3ヶ月ぶりの投稿になってしまいました。
ウィズコロナの時期だけに、
ご心配のお声がけをいただくこともありました。
すっかりごぶさたしてしまい、申し訳ありません。

ちょっと前に引っ越しをしたのです。
私は東京で賃貸住まいをしていまして、
どちらかといえばシンプル、コンパクトな暮らしを
しているつもりでしたが、いざ引っ越しとなると、
いつの間にか増えた荷物の量にびっくりしました。

ちょうどステイホームの自粛期間でしたので、
世界のニュースに耳をそばだてながら、
せっせと片づけをしているうちに、
思い切ってモノを減らそう、と決意し、
長年コツコツ集めてきたアンティーク雑貨や
読み返す予定のない本、棚を飾るだけの器など、
譲ったり、売ったり、処分したり、
大胆に減らし始めました。
勢いよく育ってくれた植物たちの鉢も、
それぞれ新しい家に養子に行ってくれました。

別れる時には、いろんな思いがよぎって胸がチクッと
することがあっても、手放してしまったあとでは、
ホッとして解放感に満たされます。
エネルギー的にもスッキリ軽やかになります。

私はもともと、色柄や複雑なデザイン、文字など
情報の多いものが目に付くところにあるのが苦手なため、
汚部屋だったわけでもないのですが、
それでもいつの間にか、主従関係が反転するほどに、
モノたちのエネルギーに支配されていたのだと
気づかされます。

持ち物を半分くらい減らして引っ越してからも、
佐々木典士さんの著書「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」
を読んで共感し、またいくつか収納家具を手放し、
徹底的な整理に入りました。

いつか使える、まだ使える、高かったし、
思い出があって捨てられない、いまいち使いづらい…
そんなこんなでしまわれて、
半ば存在さえ忘れ去られていたモノたちを
光の元に引っ張り出して、見つめてみます。

ときめかないモノは捨てる、というご指南で
ベストセラーになった本も以前読みましたが、
そのあたりの判断が、どうも私にはうまくできません。

それでも「かつて」と「いつか」のエネルギーに
感謝してお別れをしよう、と潔く決めて作業していくと、
これが自分にとって、思いがけず意味深い
ヒーリングになっているということがわかってきます。
モノを手放すことで完了し浄化できることは、
想像以上に多いのです。

こういった作業は誰にとっても有効とは限りません。
すすめたり、すすめられたりするものでもないと思います。
人それぞれ、その時々のライフスタイルがあり、価値観があります。
でも部屋や装いというのは、ウソ偽りなくその人を表していて、
今回私は、自分に恥ずかしくなるくらい、まざまざと
それを思い知ることになりました。

いま役にもたたない過去や未来の幻影に
時空間を占拠され、雑多なエネルギーに
さわさわ乱されていたのは、
無秩序な心そのものが映し出されているからでした。

そしてシンプリスムとかミニマリスムといった、
合理的かつ美しいフィロソフィーよりも、
これはもう完全に終活だ、という気になりました。

そう言うと、周囲の優しい人々は眉をひそめ、
縁起でもない、とたしなめてくれるのですが、
本気でそんな神妙さも口実にして、
ありとあらゆる執着を手放していくごとに、
意外にもエネルギーは活性化し、
ますます軽く、生き生きとしてきます。

たしかに粛々と終活していたはずなのに、
うっかり生まれ直しちゃった、みたいな、
つるんとした感覚が、新鮮な驚きです。

スピリチュアルに関心ある人々の間では、
スペースを空けると新しいモノゴトが入ってくる、
人生が好転する、という説も聞かれますが、
実際には、そういう動機や目的から
ミニマムな暮らし方を続けられる人は
少ないのではないかと思います。

私の場合は、もっと、もっと、という気持ちが
どこかにあって、モノが増えていました。
もっとこうしたら良くなるのでは、
これがあれば、もっと素敵なのでは、とか。
それでも長く愛用できるものを見極めて
選択するのは難しいことでした。
それはモノに限らなかったかもしれません。

いったん「もっとモード」をオフにし、
重なりあうエネルギーを整理していくと、
いまあるモノゴトをマネジメントできる自信を
取り戻せるようになり、

日常の充実感が増していきます。
ウキウキ、ワクワク、といった刺激的な感覚でなく、
静かに満たされていく感じです。

夢や希望がなくなるわけではありません。
むしろやることが明確になって、集中力が増したようですし、
以前よりアクティブに動けて、あまり疲れません。
何より、エネルギー的な環境として、
クリーンであることは純粋に喜ばしく、
自分はこうせざるをえなかったんだな、ということは、
後になって、はっきりわかりました。

まだまだ判断保留なモノも多いのですが、
いったんは、これ以上できない、というところまで
やり切るのだろうと思います。
リバウンドするでしょうか? どうでしょう。
でも、いま胸に感じる清々しさ、
風が渡るような心地よさをキープしたければ、

たぶんなるべく持たない自由を選択していくと思います。

そのうちまた、ご報告しますね。

「希望の光」YouTube更新しました

最近、時間があるとYouTubeのコンテンツにかかりきりで、
そのほかの更新が滞りがちになっていました。
ほんとに千手観音になりたいです。

毎日サクサク、ブログを書ける人は憧れです

YouTubeといったって動画撮影とか編集とかしてないし、
簡単でしょ、と思われるかもしれないですが、
案外そうでもないのです。

個人セッションの場合は、変成意識でありつつも
ピンポイントに深くダイブしていく集中力と、
記録を残す意識はコントロールしているのですが、
YouTube用のヒーリングは不特定多数の人がお使いになる
ファジーなものになるうえ、テーマ性はありますので、
一定の遠心力をキープする必要があるようなんです。
これは逆、というのは、やってみてわかったことなのですが。
そのコンディションが安定していないと、
ストップして最初から収録し直しを行っています。
つまりオーケストラのリハみたいに何度かチューニングして本番、
本番も上がりにNGが頻繁に出る、という感じです。

私は指揮者というより、ほんの「点」ほどに過ぎませんが、
自分というものが限りなく縮小するにしたがって、
クリエイティブな力が増していく実感は大きく、
よちよちながら、YouTubeをやり始めてから、
個人セッションの内容や、
夢の中での動きも、
以前よりぐっと深化したように思います。

面白いのは、作曲家さんから届くサンプル曲の
アイコンをクリックして開こうとしただけで、
待ちかねたようにエネルギーが沸き起こり、
あ、これはもうできてる。あとはやるだけ。
と瞬時に未来先取りでわかることがあります。

また、SNSでお知らせをしたところ、
記事に貼り付けたサムネイル画像を見ただけで
必要なエネルギー作用を得られた、
と言ってくださった方がありました。
時空間って、ほんとにあるようでないですし、
「私」という存在は、他の方々と繋がって、
小さくも大きくもなるようなんですね。
なんだか、うまく表現できていませんが…
要は…ほんとに、ありがたいことです。

こういったことは特殊ではなく、敏感な方や、
芸術家やスポーツ選手のような方々では
よく体感されているのではないでしょうか。
そうでなくても、最近は潜在意識の働きやスピードが、
以前とかなり変わってきているように感じます。

今日は3月11日。
3.11は日本人にとって忘れることのできない日に
なりました。
そして今も、ウィルス騒動で不安におびやかされる日々。
でも、止まない雨はない、ですよね。

「希望の光」というセッションをUPしてみました。
11本目になります。

YouTubeはじめました

YouTubeでヒーリングのチャンネルを始めました。

個人セッションではスピリチュアル的にかなりディープな
ビジョンが展開することが多いのですが、
こちらはまったく違うアプローチで、
ご自身でセルフヒーリングしていただけることを
目的として始めてみました。

親しみやすいテーマを取り上げ、
ミニセッション形式に仕立てています。
それぞれにヒーリングエネルギーが収録されていて、
音楽とともに展開する趣向です。

途中で眠ってしまわれても構いません。
むしろ眠気に襲われることも多いと思いますので、
運転中や入浴中のBGMにはなさらないでください。

なんだか心が疲れたな、という時や
眠れない夜などに…
気軽にお試しいただけますとうれしいです。
ぼちぼち、追加もしていきます。

チャンネルはコチラです ↓
KOAME channel

ヒーラーとしての視点

ちょっと前に入荷した、ブルーオパールという
ジェムストーンを見ていたら、
ある映画のワンシーンを思い出しました。
タヴィアーニ兄弟監督によるイタリア映画、
「カオス・シチリア物語」という作品です。

ずいぶん昔に一度観ただけなのに、
細部の印象がはっきり残っていました。
ラストでシチリア島の海辺のシーンが出てきますが、
その世界が、ブルーオパールのイメージに重なったのです。

抒情詩的な素晴らしい作品でした。
ほかのシーンの中で、亡くなった母親が語る、
こんな台詞がありました。

「もはや見ることのできなくなった者の眼で、
ものを見なさい。つらいだろうけれど、
物事がずっと美しく、尊いものに思えてくるから。」

そういえば、この台詞に出会った時、
雷に打たれたような衝撃を受けたのでした。
これはどういうことを言っているのだろう、
すごく大切なことなんじゃないだろうか、と。
しばらくの間、頭の中で、この言葉が
ネオンサインのようにぐるぐると
回っていたことを
覚えています。

それからも、折にふれて開く、
記憶の引き出しの奥の方から、
この言葉が鈴の音のように転がり出てきて、
何かを知らせてくれる気もしたのですが、
ちらと気づいてはまた、そのまましまいこんでいました。

でも今こうして向き合ってみると、
ヒーリングをしている時の自分の視線は、
死者の眼差しなのでは、と
あらためて思い当たります。
台詞本来の示唆とはだいぶ違うのでしょうが。

ヒーラーにはいろんなタイプの方がいますが、
よくいわれる「手からエネルギーを出す」という感覚が、
じつは私にはよくわからないのです。
経験を重ねるごとに、自分の手が変化し、
エネルギーグローブを着けているような感覚があったり、
また、方向指示器のように文字通りの「手当て」はしますが、
自分の身体の内側から手を通してエネルギーを流す、
という感覚は、最初からありませんでした。

そのような方法で、手から素晴らしいエネルギーを流される
ヒーラーさんも数多くいらっしゃいます。
人それぞれに違うと思います。
ヒーリングの手法にオーセンティックなものなんてなくて、

むしろ常にアヴァンギャルドであっていいと思いますが、
もしかしたらそこには、3次元に対する視点の違いが
あるのかもしれない、と考えたりします。

私の場合はレイキであっても、流し始めると、
なんとなく時空がグニャ、とゆがむ感覚が起きます。
まるで映画のスクリーンがたわみ出すみたいに。

ヒーリングする、という行為に関しては、
宇宙との二人羽織をはおるようでもあり、
同時に幾重もの鏡に向かうようでもあります。

エネルギーは私の身体と関係なく生じ
総体的な有機物のように動き、

眼は対象次元の中に入り込むことなく、
死者のように、いずこからか見ているのです。

また、別のパターンでは、
クライアントさんと私とをゼロポイントとして、
まわりをエネルギーが激しく旋回したり、
中空でらせんが上下することも多くあります。
それはまるで、洗車機の中にいて、
車内でおとなしく待っているような状況です。
私たちは動きのない静寂のポイントであり、
ヒーリングが起きているのは、そのポイント以外の
すべてではないか、と感じます。

死者の視点、というとユーレイさんをイメージして、
気味悪く思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
そういう世界観とは異なります。

世界のありようを、内的体験から直視しようとする時、
「もはや見ることができなくなった眼として見る。」
ことを、私が望んで選択しているのだろうと思います。
自我のメガネをはずし、純粋な裸眼を見開こうと。
映画の台詞が心に刺さった時すでに、
そうしようと決意していたことだったのでしょう。

それはともかくとして、
忘れがたく印象に残った言葉、というのは、
誰しもあるのではないかと思います。
時々は古いものも取り出して、ホコリを払い、
じっくり見直してみてはいかがでしょう。

意外にも、今のあなたを決定的に風味づけしている、
重要なスパイスの1つ、であるかもしれません。

「カオス・シチリア物語」予告篇